これが社会か…入庁1年目、私が初めて倒れた日

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【はじめに】憧れと不安を抱えて、社会人スタート

大学を卒業してから1年。
周りが社会人としての一歩を踏み出す中、少しの焦りと不安を抱えながら過ごした空白の期間を経て、ようやく掴んだ「公務員」への切符。

入庁初日、真新しいスーツに身を包んだ時の、あの何とも言えない高揚感を、今でも覚えています。

「ようやく、自分も社会の一員として働けるんだ」

一年間のブランクがあったからこそ、その喜びは人一倍でした。

これから始まる社会人生活への漠然とした不安と、それを上回る大きな期待。
この時の私はまだ、この数ヶ月後に自分がトイレで倒れることになるなんて、知る由もありませんでした。

研修の日々と、同期とのあたたかい日常

入庁してからの最初の1〜2ヶ月は、本格的な業務というよりは、社会人としての基礎や公務員の心構えを学ぶ「研修期間」でした。

毎日違う部署の話を聞きに行ったり、グループワークをしたりと、その雰囲気はまるで大学の授業の延長のようでした。

もちろん、今思えばその考えは、私の未熟な部分だったと反省しています。
給料をいただいている以上、それは立派な「仕事」であり、他者への貢献が求められる場です。しかし、社会人経験のなかった当時の私は、その本質にまだ気づけていませんでした。

そして、何より心強かったのが、「同期」の存在です。

同じ日にスタートラインに立ち、同じ不安を共有し、一緒に研修を受ける。
そんな仲間たちがいたからこそ、私はとても楽しく、充実した毎日を過ごすことができました。

昼休みには食堂で一緒にご飯を食べ、研修後には飲みに行って、将来の夢や不安を語り合ったものです。
「公務員になってよかった」と、この頃の私は心から思っていました。

最高の同期に恵まれ、これから始まる仕事にも前向きな希望しかありませんでした。 「この仲間たちと一緒なら、きっとどんな困難も乗り越えていける」 そう、本気で信じていたのです。

配属と実務、そして現実

楽しかった研修期間はあっという間に終わり、いよいよ本格的な業務がスタートしました。
同期たちとは別々の部署に配属され、ここからが本当の社会人生活の始まりでした。

社会人経験のない私にとって、そこはまさに未知の世界。
電話の取り方一つ、書類の回覧ルール一つとっても、全く分かりません。
「前例踏襲」「第〇〇条〇〇項」…
飛び交う専門用語や業界の隠語は、外国語のように聞こえました。

そして、追い討ちをかけるように、配属された部署の雰囲気は、正直あまり良いものではありませんでした。
皆が自分の仕事に追われ、会話も少ない。質問をしたくても、誰に声をかければいいのか分からないような、張り詰めた空気が漂っていたのです。

当然、仕事は全く進みません。

分からないことが分からないまま、気づけば一人、また一人と先輩たちが帰っていく。まだ明るかったはずの窓の外が、すっかり暗くなったオフィスで、一人残業する日が続きました。
これが、私が思い描いていた公務員の姿とは、あまりにもかけ離れた現実でした。

ただ、そんな苦しい毎日の中でも、「昨日できなかったことが、今日は少しだけできるようになった」という、小さな成長を感じる瞬間もありました。
その微かな手応えだけが、当時の私の唯一の支えだったのかもしれません。

「これが社会か」──駄目上司と、初めて倒れた日

慣れない業務と、孤独な残業。
それだけでも精神的に参っていましたが、私をさらに追い詰めたのが、

直属の上司の存在でした。

その方は、いわゆる「気分屋」。
機嫌が良い時もあれば、些細なことで部下を厳しく問い詰めることもありました。

例えば、車で一緒に外出する時。
私がどちらの道を選んでも、必ず「なんでそっちの道を行くんだ?」と理由を問いただされるのです。
一本道で、他に選択肢がないような場面でさえも。 今でこそ「どうすれば正解だったんだ?」と笑い話にできますが、当時の私は、常に自分の判断を監視され、否定されているような感覚に陥り、かなりのストレスを感じていました。

そんな日々の小さなストレスが積み重なり、私は誰にも相談できず、ただ一人で胸のうちにしまい込むしかありませんでした。

これが「社会の厳しさ」というものか。
頭では理解しようとしても、心がついていかない。 「この先、ずっとこの環境で働き続けるのか…」。そう考えると、未来が真っ暗になるような恐怖を感じ、ゾッとしたのを覚えています。

そして、入庁から数ヶ月が経ったある朝。
ついに、私の心と体は限界を迎えました。

いつも通り、仕事へ行く支度をしていた時です。突然、猛烈な吐き気に見舞われ、私はトイレに駆け込みました。 そこからの記憶は、途切れ途切れです。

ふと意識が戻ると、目の前には冷たい便器の側面がありました。
どうやら、気を失っていたようです。

遠くで両親が必死にドアを叩き、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。返事をしたいのに、声が出ない。体を動かそうとしても、全く言うことを聞かない。

トイレからなんとか引きずり出してもらっても、体は金縛りにあったように動きませんでした。それどころか、全身がガタガタと痙攣し始め、びっしょりと冷や汗が噴き出してくる。

「救急車を呼んだ方がいいんじゃないか」

両親の慌てた声を聞きながら、私はただ、自分の体に起きている異変への恐怖で、意識が遠のいていくのを感じていました。

倒れた後、そして職場復帰

結局、その日は救急車を呼ぶことなく、動けない私はただ自宅で横になっていました。翌日、なんとか動けるようになった体を家族に支えられ、近くの病院へ向かいました。

病院へ向かう車の中、恐怖や情けなさ、仕事への心配といった感情が渦巻いていました。しかし、その一方で、心のどこかに「仕事を休める…」という、わずかな安堵感があったことも、はっきりと覚えています。それほど、当時の私は追い詰められていたのです。

医師の診断は「原因不明」。

その日はひとまず帰宅し、後日、精密検査のための検査入院をすることになりました。

そして、倒れてからわずか3日後。 「社会人として、これ以上休むわけにはいかない」という強い思い込みから、私は職場に復帰しました。

同僚たちは「大丈夫?」と声をかけてくれましたが、自分の配属された部署では風邪で休んだ時と同じような、日常的な心配の声でした。中には、「休んでいた分の仕事、早く終わらせてね」と悪気なく言ってくる人も。

もちろん、仕事に来ている以上、それは当たり前のことなのですが、当時の私の心には、その言葉が重くのしかかりました。

原因不明の病状と、二度目の失神

そして、検査入院の日がやってきました。 入院初日は血圧測定などの簡単な検査のみ。本番は翌日の「心臓カテーテル検査」でした。これは、足の付け根の血管からカテーテルという細い管を心臓まで入れ、造影剤を使って心臓や血管の状態を調べる、というものです。

しかし、その本番前に、私にとっての「事件」が起きました。

検査の準備として、「尿道バルーン」を装着することになったのです。看護師さんから説明を受けましたが、未知の医療器具への不安と不快感で、私の心臓は、あの日倒れる寸前と同じように、激しくドキドキと脈打ち始めました。

なんとか装着を終えましたが、体の中にある異物感が、私の不安をさらに煽ります。心臓のドキドキは、一向に収まりません。

そして、そのドキドキが頂点に達した瞬間、私の意識は途切れました。

次に目を開けた時、ベッドの周りには何人もの看護師さんたちが、慌ただしく動いていました。 また、失神してしまったのです。

後から聞いた話ですが、私の心臓は10秒ほど停止しており、あと少し長ければ本当に危なかった、とのことでした。
私は、ここで一度、死の淵をさまよっていたのです。

長い検査の日々と、本当の病名

心臓カテーテル検査の結果、医師から告げられたのは

「ブルガダ症候群の可能性がある」

という言葉でした。聞いたこともない病名に、私はただ「そうなんだ」と思うだけ。しかし、後で調べてみると、突然死に繋がる可能性のある、大変な病気だと知りました。

ただ、最終的な結論は、「心電図がブルガダ型という特殊な波形なだけで、ブルガダ症候群そのものではないだろう」という、なんともスッキリしないものでした。「???」と、頭の中はハテナでいっぱいでしたが、ひとまず大丈夫らしい、ということだけを理解しました。

そこから、私の長い通院と検査の日々が始まりました。 そして、最初の失神から約2年が経った頃、ようやく最終的な診断名が下されたのです。

「神経調節性失神」

自律神経の乱れによって脳への血流が一時的に低下し、失神を引き起こす病気だということでした。「長時間の立ちっぱなし、強い痛み、恐怖、ストレスなどが誘因となります」という医師の説明を聞いて、私は心の底から納得しました。

実家での失神も、検査入院での失神も、原因はすべて「極度のストレス・不安・恐怖」だったのです。

入院中の光 ― 同期の存在

原因不明の病気への不安と、二度目の失神という恐怖。暗い気持ちで過ごしていた入院生活の中で、忘れられない出来事がありました。

同期たちが、お見舞いに来てくれたのです。

母から職場への連絡はしてもらっていましたが、上司や同じ係の先輩からは、特に何もありませんでした。
だからこそ、忙しい合間を縫って会いに来てくれた同期たちの存在は、本当に、言葉にできないほど嬉しいものでした。

会えた時間はわずかでしたが、不思議と、自分でも元気になっていくのが分かりました。心配をかけたくないという思いから、二度目の失神の話を少し面白おかしく話したりもしましたが、彼らと笑い合った時間は、何よりの薬になりました。

以前は、お見舞いに行く立場しか経験したことがなく、「行っても逆に気を使わせるだけかな」などと思ったこともありました。しかし、いざ自分がお見舞いしてもらう立場になると、お見舞いがどれほど人の心を温め、勇気づけるものかを、身をもって知りました。

「やばかったけど、無駄じゃなかった」と思える理由

二度の失神と、心臓停止の可能性。
そして、本当の病名が分かるまでの、約2年間。 正直に言って、人生で最も「やばかった」時期のひとつです。

しかし、不思議なもので、すべてが終わった今、あの経験は決して無駄ではなかったと、心から思えるようになりました。
あの暗闇の中で、私は4つの大切なことを学んだからです。

学び①:「永遠」は、ない

公務員の職場には、「人事異動」という大きな仕組みがあります。良くも悪くも、数年経てば人は入れ替わるのです。
「この上司と、この部署で、一生働き続けるわけではない」。そう思えたことは、当時の私にとって大きな救いでした。
どんなに辛い環境でも、必ず終わりは来る。その事実が、明日へ向かうための小さな希望になりました。

学び②:「当たり前」の、ありがたさを知る

あの経験をするまで、私は自分が「人に恵まれている」という事実に、全く気づいていませんでした。
特に、不安と恐怖でいっぱいだった入院中に、わざわざ会いに来てくれた同期たちの顔を見た時、人の温かさが心に沁みて、涙が出そうになったのを覚えています。
厳しい上司がいたからこそ、同期の存在がどれほど貴重なものだったか。そのありがたさを、身をもって知ることができました。

学び③:苦しみの中で得た、確かな「成長」

誰にも頼れず、一人で必死にこなした残業の日々。当時はただ辛いだけでしたが、あの時にもがいた経験が、今の私の仕事の基礎体力を作ってくれたと断言できます。「昨日できなかったことが、今日は少しだけできるようになった。」
あの微かな手応えの積み重ねが、確かな成長に繋がっていました。

学び④:何よりもまず「自分」を大切にすること

社会人になりたての私は、「何があっても仕事には行かなければならない」という強い思い込みから、自分の体を大事にすることを、完全に後回しにしていました。
体が悲鳴を上げていても、それに蓋をして働き続けた結果が、あの日の失神でした。 この経験を通して、私は「自分を大切にする」ことの本当の意味を、痛いほど学びました。

【最後に】「暮らし整える課」のはじまり

ここまで、私の個人的な、そして少し恥ずかしい体験談を読んでいただき、本当にありがとうございました。

もし今、あなたがかつての私と同じように、社会の厳しさに打ちのめされ、暗闇の中にいるように感じているのなら、伝えたいことがあります。

「大丈夫、あなたは一人じゃないよ。そして、辛いなら逃げたっていいんだよ」と。
まず、あの頃の自分に声をかけるとしたら、こう言いたいです。

無理に耐え抜くことだけが強さではありません。自分を守るために「逃げる」と決断することも、同じくらい勇気ある、立派な強さです。

「その苦しみは、いつか必ずあなたの力になる」と、当時は信じられなくても、それは本当でした。

私がこのブログで『暮らし整える課』と名乗り、心や家計、そして働き方を「整える」ことについて発信しているのは、まさにこの1年目の経験が原点です。

心と体のバランスが崩れると、暮らしのすべてがうまく回らなくなる。
その辛さを、私は身をもって知りました。 だからこそ、何よりもまず「自分を大切にすること」、そして完璧じゃなくてもいい、少しずつでも穏やかに暮らすためのヒントを、誰かと共有したい。そう強く思うようになったのです。

この記事が、今まさに悩んでいるあなたの心に、少しでも寄り添うことができたなら、これほど嬉しいことはありません。

あなたの毎日が、少しでも穏やかで、整ったものになることを、心から願っています。

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